卓話「カメラの話」

田邊雅範会員田辺雅範会員

第1部
1. 2005年(平成17年)10月11日の例会卓話で「カメラの話」をいたしました。その時の内容を、先ずかいつまんで話します。
(1) カメラの原形は、16世紀頃のカメラオブスクラで、画面に映ったものを絵に描きました。
(2) 1839年にジロー・ダゲレオタイプ(フランス)のカメラによる銀板写真が発明され、1848年頃に日本へ導入されました。
(3) 1851年にスコット・アーチャー(イギリス)が湿板写真を発明し、安政年間(1850年代後半)に日本へ伝来しました。
(4) 1871年にマドックス(イギリス)がゼラチン乾板を発表し、明治中期には日本にも伝わり、1890年頃から1935年頃に全盛となりました。
(5) 1888年にイーストマン・コダック(アメリカ)からロールフィルムが発表され、様々なタイプのカメラが作られ、写真撮影が広まっていきました。

2. 35ミリ判カメラ
(1) トーマス・エジソンが映画撮影機キネトグラフを作り、1893年には35ミリ幅のパーフォレーションの付いた映画用のフィルムが製造されるようになりました。
(2) 本日はつい最近までのフィルム時代には一般的であった、この35ミリ幅のフィルムを使用する、「35ミリ判カメラ」の話をしていきます。
(3) カメラの小型化をめざして、この35ミリ幅のフィルムを利用する様々なカメラが作られましたが、実用に堪えるものとして最初に開発されたのはライカ(エルンスト・ライツ社 ドイツ)でした。ライカは1914年に試作品「ウル・ライカ」がオスカー・バルナックによって作られ、1924年に試作品第2号「ライカ0(ヌル・ライカ)」を作り、1925年にはライカⅠが市販されました。
(4) ライカが成功したのは、映写機の規格は24×18ミリ(今のカメラで言うハーフサイズ)でしたが、これでは鮮明な画像をえられなかったので2コマ分を使い、24×36ミリを1コマとしました。またカメラは精密機器ですが、オスカー・バルナックの設計は簡素で合理的で、製造工程も良く、耐久性のある機器として発売されました。このバルナック型カメラは第二次大戦後、特許が失効すると各国でコピー品が製造されました。そしてカメラのみではなく、写真撮影後の現像・プリント機器も発売し、写真撮影をシステムで提供したからです。
(5) その後この35ミリ幅のロールフィルムを使うカメラが主流となり、様々な国・メーカーからカメラが発売され、また進歩してきました。1960年台になると日本製の一眼レフが世界の支持を集め、日本製のカメラが世界を席巻することになりました。

3. デジタルカメラ
(1) 2005年の卓話時にデジタルカメラについても少々触れています。
(2) 1970年にアメリカでCCDという映像記録装置が実用化され、1981年にソニーから「マビカ」という電子カメラシステムが発表され、1995年にカシオから「QV-10」(画素数25万)というデジタルカメラが発売されました。その当時は高性能なデジタルカメラとして1千万画素超の物も発売され、今後はデジタルカメラが主流になっていくのではないか、ということをお話しました。
(3) 2005年当時のデジタルカメラの画素数の主流は400-800万画素で、ごく一部のカメラに800-1200万画素といったところでした。現在は画素数1000-2000万画素の物が主流で、市販品でも3000-5000万画素の物や、業務用では億を超える画素の物もあります。
(4) ここで写真の原理です。写真はレンズを通って入ってくる光(人物・風景など)を映像記録装置に写すということです。映像記録装置はカメラオブスクラの時代は書き写し、その後フィルムになりCCDとなりCMOSになってきました。その映像記録装置に鮮明に写し込むためには、光の量を調整しなければなりません。それがレンズの絞りでありシャッターによる調節です。もう一つの要素として映像記録装置の感度も重要です。絞りはF値で1.0が人間の目の明るさと言われています。シャッター速度は感光する時間ですが機械式で8千分の1秒迄、電子式は3万分の1秒迄あります。感度はISOで表示されます。フィルム時代にはISO100とかISO400が一般的でしたが、デジタルになってもこの尺度は変わっていません。ただ、撮像素子の性能が上がり、現在ではISOは100から5万位迄が通常で、拡張処理すると40万以上の感度になるものもありますが、基本はISO100というのは変わりません。但し現実はISO1600~6400以上にすると画像はノイズが出て荒れます。
(5) 映像記録装置(撮像素子・イメージセンサーといいますが半導体です)の画素数は上がってきましたが、撮像素子一個あたりの面積も画像に影響します。撮像素子の面積は大きいほど画像は鮮明になります。同じ画素数でもスマホよりコンパクトデジカメ、更にはフルサイズデジカメの方が画質は良くなります。画素数が増えてくると画像のファイルサイズも増えてきます。記録するメディアも大容量になってきていて、通信速度も早くしなければ実用にはなりません。はじめの頃は1ファイルがKB単位でしたが今ではMB、しかもRAW+JPGでは60MBを超える物もあります。記録媒体もTBに達するものもありますが、現在一般的なものは16~64GB・スピードクラス10あたりとなっています。
(6) デジタルカメラで撮影した写真のファイル形式(拡張子)にも変遷がありました。現在主に使われているのは、JPEG,TIFF,RAW形式です。一般的にはJPEGが使われています。保存する際に圧縮し、データ容量が少なくなります。デジタルカメラの初期設定はこの形式になっています。TIFFは圧縮しないのでデータ容量は大きくなります。RAWは「生」という意味で、撮影したそのままの状態(データ)で、パソコンのソフトで「現像」という処理を行い、JPEGやTIFFに変換して画像をディスプレイに写し出したりプリントできるようにします。またデジタルカメラで撮影した写真ファイルにはExifという、撮影日時や機種、露出値、カメラによっては位置情報などの情報が記録されます。

第2部
1. ライカ(LEICA)
(1) 1869年 ドイツ・ヘッセン州ヴェッツラーにて、エルンスト・ライツⅠ世が、フリードリヒ・ベルトレの事業を引き継ぎ、エルンスト・ライツ・オプティッシェ・ヴェルケを設立し、顕微鏡メーカーとなりました。その後1905年にカメラ生産(35ミリカメラではない)、1907年に双眼鏡生産に参入しました。
(2) 1911年 技術者オスカー・バルナックが入社し、1912年に映画用カメラを試作。映画用フィルムの露出チェック用に小型スチルカメラを試作しました。(18×24ミリ)
(3) 1914年 35ミリ映画用フィルムの2駒分を使用する(36×24ミリ)「ウル・ライカ」を2台試作しました。
(4) 1920年に会社を継いだエルンスト・ライツⅡ世がウル・ライカに着目し、改良したプロトタイプとして「ヌル・ライカ」31台を1923年に製作しました。(2018年4月にオークションで240万ユーロ(約3億1,500万円)もの高値で落札されました) これを基により使いやすくして、1925年にライカⅠを生産・販売しました。カメラの名前は、「ライツのカメラ(Leitz Camera)」で「ライカ(LEICA)」と命名されました。
(5) 1930年にレンズ交換が可能となり、1932年には連動距離計を搭載したライカⅡとなりました。交換レンズも広角から望遠迄充実し、更に使いやすく改良されました。シャッター速度をB、1~1000分の一秒とし、より高性能になったライカⅢが1933年から生産されました。またこの機種はその堅牢さから軍用にも多用されました。
(6) この頃から1945年迄生産されたライカは、第二次大戦の敗戦で特許が失効し、世界各国(ソ連、イギリス、アメリカ、その他の国々、そして日本も)でコピー品や多少改良を加えたものが生産されました。日本でのコピー品はニッカやタナック、レオタックス、多少改良を加えてキャノン、外見はコンタックスで中身はライカのニコンなどがあり、ソ連ではフェド、ゾルキーなどがありました。(ソ連では特許などは無視して1930年代から作っていました。その他の国(日本を含む)でも第二次大戦中は軍用ライカを維持するため、補修部品を製造し、やがてはカメラ本体まで、戦争で入手困難となったため、自国で生産されるようになりました。)
(7) 終戦後はライカの工場は西側であったこともあり、早々と生産が始まっています。1954年にライカM3が発売されると、それまでライカを目標にバルナック・ライカの類似製品を作っていた日本は、その技術力の高さに、レンジファインダー機を諦らめ(主力機種とはせずに、ということです)、クイックリターン機構を持つ一眼レフに軸足を移し、大量生産と安価さで世界を席巻しました。
(8) 1970年代になると日本のカメラメーカーに価格競争力 (大量生産対手作業が介在する少量生産)、そして次第に電子化や品質の向上などで差がつき、ライカは不振となりました。1972年にミノルタカメラと提携しましたが、1974年にスイスのウィルド傘下になり、1988年にウィルドのライツはカメラ生産を停止しました。
(9) ウィルド傘下のライツがカメラ生産を止めたため、ドイツ・ソムルスで、ライツでカメラ生産に携わっていた人たちで「ライカカメラ」を1988年に立ち上げ生産を再開しました。(ライカカメラという商号は1990年から) (現在はヴェッツラーにあります。)
(10) 2000年に松下電器産業と技術協力契約を締結し、レンズを中心として提携関係が続いています。
(11) ライカの名で一眼レフも製造していました。1965年にライカフレックス、1976年にライカR3(ミノルタXEをベースにしています)、1996年にR8(独自設計)などがありました。他にもコンパクトカメラも生産しています。
(12) Mタイプのライカ
M3 1954年~66年 22万台製造、
M2 1958年~68年 8万8千台製造、
M4 1967年~75年 5万8千台製造、
M5 1971年~74年 3万1千台製造、
CL 1973年~76年 6万5千台製造、
M4-2 1978年~80年 1万6千台製造、
M6 1984年~97年、
M6-TTL 1999年~2002年、
M7 2004年~ 現行、
MP 2003年~ 現行、
MA 2014年~ 現行
(13) Mタイプのデジタルカメラ
M8 2006年~09年 (フルサイズでない)、
M8.2 2008年~09年 (これもフルサイズでない)、
M9 2009年~13年 (ここからフルサイズ)、
M(Typ240) 2012年~ 現行、
M Monochrom 2012年~ (2015年からニュータイプ)
M10 2017年~ 現行、
(Mタイプのカメラにはバリエーションが多い)
(14) 現在のライカのカメラは、フィルムタイプとしてM7、MA、MPがあり、デジタルカメラはM(Typ240)、MMonochrom(モノクローム専用)、M10(バリエーションあり)、SL(ミラーレス一眼カメラ)、Q(28ミリ広角専用) (ここまでフルサイズ)、CL(ミラーレス APSサイズ)、その他フォーサーズのカメラやコンパクトデジタルカメラ、インスタントカメラなどがあります。
(15) ライカカメラ社の規模は、1999年では資本金約11億円、売上約136億円です。

2. ツァイス・イコン
(1) カール・ツァイス財団傘下で1926年に創設されました。それまでドイツで乱立していたカメラメーカー、イカ、エルネマン、ゲルツ、コンテッサ・ネッテルの4社が合併してドイツ・ドレスデンにてツァイス・イコン社となりました。
(2) ツァイス・イコンでは様々なタイプのカメラを製造していましたが、ライカ判レンジファインダーカメラとして1932年に「コンタックスI(Contax I)という名称で発売を開始しました。ライカと同じレンジファインダーカメラであっても、ライカの特許を避けた距離計や鎧戸式のシャッター、独自のバヨネットマウント等、ツァイスの総力を結集したカメラで、機構はライカよりはるかに複雑になっていました。1936年にコンタックスII、同年光電池式電気露出計を搭載したコンタックスIIIを発売しています。第二次大戦終了後ドレスデンはソ連の支配下となったため、一部の技術者達は西ドイツのシュトゥットガルトでツァイス・イコンを立ち上げ、カメラの生産を始めました。ドレスデンにあった製造機械類はソ連に持ち去られ、ソ連でキエフとして生産されました。一方シュトゥットガルトのツァイスでは、戦前のコンタックスを改良し、コンタックスIIa、IIIaとして、1950年より生産を再開しました。
(3) レンジファインダーカメラ以外では、一眼レフとしてコンタフレックス、コンタレックスがあります。また東西分裂により、東側ではコンタックスの一眼レフが販売され、それが西側で販売する場合は、ペンタコン、後にはプラクチカという名称になりました。
(4) しかしツァイス・イコンも1971年にカメラ生産を中止し、1974年にヤシカと提携して、コンタックス(CONTAX)名の一眼レフを、レンズはカール・ツァイスが供給し(後にはカール・ツァイスの監理のもとにライセンス生産を行うようになります)、ボディーはヤシカで製造し、ヤシカから販売しました。最初にCONTAX RTSを1975年に発売し、1983年に京セラに吸収合併されるも、2005年迄コンタックスブランドのカメラを製造しました。コンタックス名のカメラの中に、プレミアムコンパクトとしてTシリーズのカメラもありました。
(5) その後カール・ツァイスはコシナと2004年に提携し、レンジファインダーカメラ「ツァイス・イコン」を2005年に発売しました。レンズに関しては、コシナでカール・ツァイスブランドのレンズを製造しています。ツァイス社の2017年9月期の売上は約6685億円です。

3. キャノン
(1) 1932年 吉田五郎がライカⅡを購入し、模倣品を制作しました。翌年「精機光学研究所」を六本木に設立しカメラの製造を始めました。1935年に「キャノン Canon」を商標登録し、近江屋写真用品店と独占販売契約を結んで、1936年ハンザキャノンとして発売しました。
(2) 現在のキャノンは、資本金1747億円、売上3兆4千億円の大企業で、イメージングシステムはそのうち32%を占めています。(2016年12月期)

4. ニコン
(1) 1917年 光学兵器の国産化を目的として岩崎小彌太の出資により「日本光学工業㈱」として設立されました。1930年以降は陸軍造兵廠東京工廠、東京光学機械(現・トプコン)、高千穂光学工業(現・オリンパス)、東京芝浦電気(現・東芝)、富岡光学器械製作所(後の京セラオプテック)、榎本光学精機(現・富士フィルム)、などとともに日本軍の光学兵器を開発製造しました。レンズ名の「ニッコール」という商標は1931年に決定し、カメラ名の「ニコン」は1946年に決定されています。1945年の終戦とともに民生品の生産に転換し、カメラの製造を始めました。
(2) 現在のニコンの資本金は654億円、売上7488億円です。(2017年3月期)

2019年3月5日 | カテゴリー : 卓話 | タグ : | 投稿者 : gifunakarc

卓話「面白マジメにレッツ エンジョイ コーラス」

各務克郎会員=2019年2月11日14時からFMわっちで放送される番組の概要=
岐阜中ロータリークラブ 各務克郎会員

(1)合唱の基礎知識
★合唱団の種類
・オーケストラの一部
・オペラの出演者
・宗教曲を歌う合唱団
・無伴奏orピアノ伴奏付きの合唱団(←今回はこの話)

★構成メンバーによる合唱団の分類
・児童合唱団 女子の小中学生と変声期前の男子
・混声合唱団 女性と変声期後の男性
・女声合唱団 女性だけ
・男声合唱団 変声期後の男性だけ

★声域(または声質)による「役割」(=「パート」)
児童合唱・女声合唱
ソプラノ・セカンドソプラノ・メゾソプラノ・アルト
男声合唱
テノール・セカンドテノール・バリトン・バス
混声合唱
ソプラノ・アルト・テノール・バス

(2)合唱の魅力
★手軽にできて、成功すれば大きな包容力
・2人以上いれば楽しめる
・ハーモニーに包まれる醍醐味

★気持ちよく大きな声を出せる
・声と一緒にいやなことを体の外に押し出す感じ

★いつでもどこでも
・少年少女合唱団の合宿にて・・・
・男声合唱団のバス旅行にて・・・
・練習後の居酒屋にて・・・
・定期演奏会の打ち上げにて・・・
・グランヴェール岐山のビアガーデンにて・・・

★脳トレ
・楽譜を読む 「奉仕の理想」の楽譜を例に・・・
・暗譜

(3)自分の成長過程における歌の存在
・童謡のレコード
・松栄堂ヤマハ音楽教室
・長良川少年少女合唱団(現・岐阜少年少女合唱団)
・長良高校コーラス部(混声期最後の男声)
・東京経済大学グリークラブ(関谷晋先生)
・小金井音楽専門学校(現・小金井音楽アカデミー)での声楽個人レッスン(玉木豊先生)
・混声合唱団ムンテルコール(恩田忠彦先生)
・男声合唱団コールファーテル(吉田雅博先生)・・・2019年7月15日@サラマンカホール
・混声合唱団ムンテルコール(朝田健)
・アマデウスコーラス マーラー復活合唱団(野村富昭先生)・・・2019年4月29日@愛知県芸術劇場

(4)いじめに苦しむ子どもたちへ
・・・いじめられっ子の先輩として一言。
まじめに考えすぎないで!好きなことに没頭することは現実逃避ではなく、気持ちのリセット。

(5)コミュニティFM「てにておラジオ」PR
・毎月第二・第四日曜日に午後2時から4時半まで「みんなの森ぎふメディアコスモス」で公開収録

・今日ご紹介した私がしゃべる番組は、1月27日日曜日15時半頃から公開収録@みんなの森ぎふメディアコスモス
・FMわっち(78.5Mhz)にて、2月11日14時から本放送(再放送2月12日~14日14時から&2月16日13時から)。

2019年1月22日 | カテゴリー : 卓話 | タグ : | 投稿者 : gifunakarc