卓話「岐阜中RC会計処理について」

会計 安藤元一会員
『岐阜中ロータリークラブ会計処理について』
会計 安藤元一
委員会の精算方法について(各委員長へのお願い)
〇全ての支払依頼は当クラブ専用の「支払請求書」(桃色)を利用願います。
1.原則として事業費は立替払いで領収書を頂いてください。

2.「支払請求書」に領収書を添付し(幹事の承認を得て)会計へ提出
(1事業に複数の領収書がある場合は、「支払請求書」に明細を記入のこと)

3.<基本>毎月、月末締めにて翌月の第一例会にて精算(田中副会計)
※費用が多額でしかも事前に必要な場合は幹事の承認を得て会計へ申請願います。

<親睦委員会>
<入金のケース>
・ビジター料(3,500円)→ 入金票(緑色)
・現金を添えて会計または副会計へ
・スマイルボックスへの投函
1. スマイルチケット利用の場合 → スマイルの投函状況は会員個別に集計を取ること
(現金を扱わない場合)
2. 現金入金の場合 → スマイル投函用紙・現金を添えて会計または副会計へ
※いずれの場合もスマイル投函用紙の控えは必ず保管・管理のこと

<支払のケース>
1. 夜間例会など持ち出し例会は理事会審議事業のため、理事会に提出された予算書と照合して「支払請求書」を作成し、できるだけ速やかに会計まで提出願います。
※都ホテルの例会以外の利用明細は月末締めの請求書とは別に会計宛に郵送してもらうことにしてあります。その資料を委員長にお渡しいたしますので、その明細書を添えて「支払請求書」を作成してください。
2.アトラクション出演者への謝礼などイベント当日に必要な金銭は事前に申請していただければ用意いたします。


<卓話担当委員会>

卓話者への謝礼金は、事前の理事会に於いてプログラムで卓話者と一緒に審議されるため、その場で申請すれば担当例会には用意いたします。
(外部卓話者への謝礼金は交通費込み:原則10,000円)

<年次計画書訂正表>
P32 プログラム10月8日(火)→ 10月11日(金)
P49 出席向上委員会 実施予定日10月8日(火)→ 10月11日(金)
P53 ロータリー財団委員会 100万$軽食940円 → 800円
           R財団特別寄付@150$×112円 → 108円
P55 米山奨学事業委員会軽食@940円 → 800円
P62 会員名簿 萩野昌和(携帯)090-3507 → 090-3567
P67   〃  大橋哲也 結婚記念日 S35 → S61
P73 会員誕生日 竹村安史 3月9日 → 3月19日
P97 追加 → 事務局員 日比野志信

2019年7月30日 | カテゴリー : 卓話 | タグ : | 投稿者 : gifunakarc

卓話「ガバナー公式訪問 挨拶」

2019-22年度第2630地区 ガバナー辻正敏様2019-2020年度 国際ロータリー第2630地区
ガバナー 辻 正敏 様
ご挨拶

さて、この2019-20年度は、国際ロータリー会長のマローニーさんの Rotary Connects The World(ロータリーは世界をつなぐ)がテーマです。私たち2630地区のテーマは「総天然色」。これまた訳の分かったような、わからないような、ガバナーらしいテーマです。
会長のマローニーさんは、今年のサンディエゴでの国際協議会で、前年度の会員減少が過去にない大きなものだったことに触れ、増強や退会防止の大切さを述べられると共に、その方法にも大きく踏み込んで話をされました。最初の強調事項。それはロータリー自身の成長です。
Grow Rotaryと表現しました。穴の開いたバケツにいくら水を入れても抜けていくばかり。それが今のロータリーではないかと。そしてロータリーを成長させなければならないと言います。ロータリーというバケツをきちんと修復、あるいは今の時代に合った新しいものに変える必要があります。
会員減少は組織としては大変な問題です。職業分類を強化して会員を増やし、新しいクラブを作らなくてはならない。そして子どもたちや若い人たちを大切にしなければいけません。ロータリーのリーダーシップの道をもっと歩きやすくしなければなりません。増強や拡大の前にロータリーの成長が不可欠です。仕事をしながらロータリーができなければいけない。家族、仕事、ロータリーのバランスを考えなくてはならないと言っています。
Grow Rotary は単に会員を増やそう、組織を大きくしようと言っているのではなく、きちんと続いていくように(持続性)、成長していきましょうと言っています。公共イメージの向上やロータリーの認知度向上もその一つです。
先ほども触れましたが、子どもたちや若い人たちとの結びつき・つながりの大切さです。今年の国際協議会に初めてローターアクトたちが正式に招かれました。世界で60名。日本から3名。私は日本からのローターアクターに質問しました。「どうしてローターアクトに入ったの」。答えは「奉仕がしたかったからです。」と明確に答えました。私は少し驚きました。私は彼らの年代の頃、「奉仕がしたい」と思ったでしょうか。若い彼らと私たちの思いは、どこかで交わるかもしれません。
青少年プログラムはロータリーにとって避けては通れないものです。今触れたローターアクトの他にもインターアクト、青少年交換等があります。いろいろなハラスメントや最近多く発生する災害時対応など様々な問題も起こっているようです。しかし私たちは諸問題を真正面で受け止め、諸問題への認識を深め、対応力を十分持って取り組まなければなりません。
ちょっと難しい話になりますが、ロータリーの定義といってもよいとされていますロータリーの中核的価値観というものがあります。奉仕、親睦、多様性、高潔性、リーダーシップの5つです。これが2018年、昨年の国際協議会で「ビジョン声明」として出されました。「私たちロータリアンは、世界で、地域社会で、そして自分自身の中で、持続可能な良い変化を生むために、人々が手を取り合って行動する世界を目指しています。」という声明です。それを受けて、目的を達成するための戦略計画があります。「より大きなインパクト」、「参加者の基盤拡張」、「参加者の積極的なかかわり」、そして「適応力を高める」です。
2017-18年度 Make a Difference(変化をもたらす)、2018-19年度 Be The Inspiration(インスピレーションになろう)、そして本年度2019-20年度は「ロータリーは世界をつなぐ」です。
「変化とは何?」と考えました。「あっ、こんなのはどうだろう」と思いつきがありました。そうしたら「そのような思いや考えを持った人が手を取り合っていきましょう」と考えたら、本年度は今まで考えてきたことを思い切ってみんなで動かしてみましょうという年になるわけです。2019-20年度のミッションは、「人びとが手を取り合って行動しよう」です。ロータリーは難しい表現が好きですよね。簡単に言えば、この2017-18年度からのテーマ、これが戦略計画だと考えても良いのではないでしょうか。
では具体的にはどうしましょうか。「人々が手を取り合う」ために、まずクラブや地区のリーダーが率先して積極的に参加する。会員の維持と新しい会員の増強。できればローターアクターや40歳未満の若い会員、女性会員の増強。新しいクラブを作るのもいいでしょう。それとロータリーと関わっている若い人たち、インターアクト、ローターアクト、ロータリークラブ会員間の積極的な参加・協力、JCや商工会議所青年部との交流などもいいですね。「行動する」とは、例えばポリオ。ポリオ根絶活動(表現が根絶になったことの説明)でのロータリーが果たしている役割をはじめとしてロータリーが取り組んでいることを伝える。R財団補助金を活用してのプロジェクトを増やすと共にR財団への年次基金、ポリオプラス、恒久基金への寄付の増進。「世界を変える行動人」キャンペーンの促進などでしょうか。
今年4月、2019年規定審議会でメーキャップの話がありました。今まで例会の前後14日間だったメーキャップを、そのロータリー年度内にすればよいということです。「えっ、出席率はどうするの」、「月信にはどう記載するの」、「出席委員会はいらないの」等々物議を醸しています。年度内のメーキャップは最大期間で、今まで通りでよければそれぞれのクラブ細則で決める。例会の前後14日でも30日でも構わないわけで、あくまでクラブが決めれば良い訳です。
どんな変化が訪れても中核的価値観やビジョン声明を忘れなければロータリーは変わりません。より皆さんが居心地の良いロータリーにするためにロータリーを成長させるのです。それには家族や若い人たちとのつながりを大切にして会員の基盤を強化しましょう。もう少しのところまで来ているポリオ根絶に向けて立ち上がりましょう。ロータリー財団が初めて寄付をしたのは1930年国際障害児協会への500ドルです。もっと言えばポリオに感染した子どもたちをサポートする協会でした。ロータリーのポリオとの戦いは90年に及ぶと言ってもよいでしょう。ロータリー財団の資金を活用して良い変化をもたらすための事業を行いましょう。そして寄付もしましょう。
いよいよクラブがロータリーの理念に基づき、自由に主導権を持ってロータリー活動をする時が来たようです。みなさんの家族が、事業所が、そしてクラブが活き活きとロータリーを楽しまれ、この地区にあるロータリークラブの数だけ素敵な花を咲かせ、総天然色の2630地区を作りましょう。

2019年7月20日 | カテゴリー : 卓話 | タグ : | 投稿者 : gifunakarc

ガバナー補佐訪問

◎RI第2630地区 岐阜Aグループ
ガバナー補佐 篠田 徹様

岐阜中ロータリークラブの皆さん、こんにちは。 今年度、岐阜Aグループガバナー補佐を拝命しました岐阜西ロータリークラブ所属の篠田 徹と申します。この1年間、RI並びに2630地区 辻ガバナーの下、岐阜Aグループ各クラブとの橋渡し、お世話をさせていただきますのでよろしくお願いいたします。
元号が令和に変わり、RIのターゲットも一昨年の「変化をもたらす」そして、昨年の「インスピレーションになろう」から、今年度のRIマーク・ダニエル・マローニー会長は「ロータリーは世界をつなぐ」、当2630地区の辻ガバナーは「すべてのロータリーアンが(総)、それぞれの空の下で(天)しっかりと思いを込めて行動し(然)、それぞれの色を醸し出す(色)」との地区テーマ『総天然色』を掲げられました。
私はロータリーが近年、特にこの10年大きく変わってきたと思います。例えば例会出席では今年の規定審議会の採決により出席補填は今までの前後2週間であったのが、年度末までに行えばよいと改正され、職業分類の人数制限も撤廃されました。昨今、他クラブ例会に参加し出席補填する会員はほとんど見受けられなくなりました、新会員然りです。
そこで、私のテーマは『相互理解』とします。先ずは岐阜Aグループ5クラブ間の交流を深め、長年作り上げてきた各クラブの特色を互いに学ぶことだと思います。それには、クラブ訪問が会員相互・クラブ相互の理解を深めることが、ロータリーの世界をより深く学ぶことにつながると思います。
先ずは初めに、7月20日に開催されますIM並びに合同例会には多くの会員の皆様にご出席いただきロータリアンの絆を深めていただきたいと思います。
今年度の年次計画書のガバナーご挨拶にもありますように、辻ガバナーから具体的な地区の目標として、以下の4項目が掲げられました。
・組織の維持を考えた会員増強と拡大(ロータリーをなくさないため)
・ロータリー財団に対する理解の増進(世界中でよいことをするため)
・青少年プログラムへの積極参加(未来のロータリアンのため)
・国際ロータリー及び国際ロータリー会長賞への挑戦(今の活動評価のため)
今年1年間、頑張ってガバナー補佐を務めさせていただきますのでよろしくご理解・ご協力の程お願いします。

そこで、少しお時間を頂き私の職業をお話いたします。私の職業は測量・建設コンサルタント業で職業分類は測量士です。
測量については皆様よくご存じの伊能忠敬が1800年初めの江戸時代に全国を巡り地図を作成されたことはで知られていますが。測量はエジプトで紀元前2000年以前から既に始まり、その技術及び作成方法は1970年代(昭和40年代初め)までほとんど変わりませんでした。ただし、1600年初めにガリレオガリレイが望遠鏡を発明し、ネイピアが対数表を考案すると、観測機器及び計算方法の観測精度が飛躍的によくなりました。やがて明治に入り、陸軍参謀本部の中に陸地測量部が創設され全国に1等三角点などと呼ばれる基準点を約10万点及び水準点が1925年昭和の初め頃までに整備されました。戦後、国土地理院と名称は変わりましたが国土整備に関わる測量調査は国の指導の下に進められてきました。1980年代に 人工衛星が打ち上げられGPS衛星が登場すると観測方法及び調査機器は全く新しいものに変わり現在に至っています。
民間測量に関わっている土地家屋調査士と違い、99%近く公共事業に携わっている測量業は、1955年(昭和30年)過ぎに初めて大蔵省で業登録が認められ職業分類はサービス業です。1965年(昭和40年代)に入ると公共事業も多くなり土木設計・建設コンサルタント業務も官公庁から業務発注されるようになりました。発注に際しては公共測量作業規定、そして設計基準業務規程書などが発行及び改訂され、その都度、官民との講習会が開催されています。
今、私たちの業界での問題点は社会的認知度の低さです。弊社も現在300名ほどの社員を抱えており、そのほとんどが高学歴社員です。しかしながら官公庁との請負業務を行っている関係、社会的認知度、地位は大変低いのが現状です。
昔、3方という言葉がありました。馬方、船方、土方です、戦後間もない頃まで、社会の下層階級を代表する呼称でした。やがて、戦後復興が進み海外進出が盛んになると船方は船長、船員と呼ばれ憧れの職種に変わっていきました。その頃は、まだ馬方は馬車を牽いて材木などを運搬していたことを今でも私も覚えています。やがて、馬方も高度経済成長期に入り、クロネコヤマトやご当地の西濃運輸など運送業として華々しく発展し、馬方の呼称も消えていきました。一方、土方の呼び名はTVのバラエティー番組などでドテラを巻いたタケシが登場すれば即、土方と多くの人には認識されます。これは、建設関連業に携わる多くの業者が官公庁の業務に関わっているため一般社会に認知されにくいためだと思います。
今後、より住みよい社会の基盤整備のために関わる測量・建設コンサルタント業務を少しでも多くの人にご理解いただけるよう広報していく所存です。
本日は取り留めのないお話を最後までお聞きいただき、ありがとうございました。再度、この1年、皆様方にはお世話になりますがよろしくお願いします。

ガバナー補佐 第3回クラブ訪問

岐阜Aグループガバナー補佐 小野幸満様RI第2630地区 岐阜Aグループ
ガバナー補佐 小野幸満様

皆さま、こんにちは。本日は今年度最後のクラブ訪問にお伺いしました。今年度も残すところ1か月余りとなりまして、次期への準備が進んでいることと思います。

さて、本年度、木村ガバナーのテーマ「理念をかかげ 意欲を喚起し 共に行動」と、地区重点目標のひとつ「奉仕の理念の浸透と例会の充実」がありました。

皆さまには、よくご理解をして行動していただきましたことに心から感謝申し上げます。この一年間、浅学菲才の私でしたが、皆さまのご指導により何とか任務を終えられそうな時期になりました。至らぬ点は多々あったと思いますが、お許しを頂き感謝のお礼を申し上げます。

そして、最後に木村ガバナーからの連絡がありましたので、お伝えします。当地区は他地区と比較して「My Rotary」の登録率が芳しくないとのことだそうです。したがいまして、各クラブで、「My Rotary」のアカウント登録を推進してほしいとのことです。登録すれば、いろいろな資料やデータを見ることができ、関心と意欲を喚起することができるのではないかということです。

せめて現・次期の会長・幹事さんや広報委員長さんには、必要だと思われますので、どうぞよろしくお願いいたします。

My ROTARY(日本語サイト)

卓話「カメラの話」

田邊雅範会員田辺雅範会員

第1部
1. 2005年(平成17年)10月11日の例会卓話で「カメラの話」をいたしました。その時の内容を、先ずかいつまんで話します。
(1) カメラの原形は、16世紀頃のカメラオブスクラで、画面に映ったものを絵に描きました。
(2) 1839年にジロー・ダゲレオタイプ(フランス)のカメラによる銀板写真が発明され、1848年頃に日本へ導入されました。
(3) 1851年にスコット・アーチャー(イギリス)が湿板写真を発明し、安政年間(1850年代後半)に日本へ伝来しました。
(4) 1871年にマドックス(イギリス)がゼラチン乾板を発表し、明治中期には日本にも伝わり、1890年頃から1935年頃に全盛となりました。
(5) 1888年にイーストマン・コダック(アメリカ)からロールフィルムが発表され、様々なタイプのカメラが作られ、写真撮影が広まっていきました。

2. 35ミリ判カメラ
(1) トーマス・エジソンが映画撮影機キネトグラフを作り、1893年には35ミリ幅のパーフォレーションの付いた映画用のフィルムが製造されるようになりました。
(2) 本日はつい最近までのフィルム時代には一般的であった、この35ミリ幅のフィルムを使用する、「35ミリ判カメラ」の話をしていきます。
(3) カメラの小型化をめざして、この35ミリ幅のフィルムを利用する様々なカメラが作られましたが、実用に堪えるものとして最初に開発されたのはライカ(エルンスト・ライツ社 ドイツ)でした。ライカは1914年に試作品「ウル・ライカ」がオスカー・バルナックによって作られ、1924年に試作品第2号「ライカ0(ヌル・ライカ)」を作り、1925年にはライカⅠが市販されました。
(4) ライカが成功したのは、映写機の規格は24×18ミリ(今のカメラで言うハーフサイズ)でしたが、これでは鮮明な画像をえられなかったので2コマ分を使い、24×36ミリを1コマとしました。またカメラは精密機器ですが、オスカー・バルナックの設計は簡素で合理的で、製造工程も良く、耐久性のある機器として発売されました。このバルナック型カメラは第二次大戦後、特許が失効すると各国でコピー品が製造されました。そしてカメラのみではなく、写真撮影後の現像・プリント機器も発売し、写真撮影をシステムで提供したからです。
(5) その後この35ミリ幅のロールフィルムを使うカメラが主流となり、様々な国・メーカーからカメラが発売され、また進歩してきました。1960年台になると日本製の一眼レフが世界の支持を集め、日本製のカメラが世界を席巻することになりました。

3. デジタルカメラ
(1) 2005年の卓話時にデジタルカメラについても少々触れています。
(2) 1970年にアメリカでCCDという映像記録装置が実用化され、1981年にソニーから「マビカ」という電子カメラシステムが発表され、1995年にカシオから「QV-10」(画素数25万)というデジタルカメラが発売されました。その当時は高性能なデジタルカメラとして1千万画素超の物も発売され、今後はデジタルカメラが主流になっていくのではないか、ということをお話しました。
(3) 2005年当時のデジタルカメラの画素数の主流は400-800万画素で、ごく一部のカメラに800-1200万画素といったところでした。現在は画素数1000-2000万画素の物が主流で、市販品でも3000-5000万画素の物や、業務用では億を超える画素の物もあります。
(4) ここで写真の原理です。写真はレンズを通って入ってくる光(人物・風景など)を映像記録装置に写すということです。映像記録装置はカメラオブスクラの時代は書き写し、その後フィルムになりCCDとなりCMOSになってきました。その映像記録装置に鮮明に写し込むためには、光の量を調整しなければなりません。それがレンズの絞りでありシャッターによる調節です。もう一つの要素として映像記録装置の感度も重要です。絞りはF値で1.0が人間の目の明るさと言われています。シャッター速度は感光する時間ですが機械式で8千分の1秒迄、電子式は3万分の1秒迄あります。感度はISOで表示されます。フィルム時代にはISO100とかISO400が一般的でしたが、デジタルになってもこの尺度は変わっていません。ただ、撮像素子の性能が上がり、現在ではISOは100から5万位迄が通常で、拡張処理すると40万以上の感度になるものもありますが、基本はISO100というのは変わりません。但し現実はISO1600~6400以上にすると画像はノイズが出て荒れます。
(5) 映像記録装置(撮像素子・イメージセンサーといいますが半導体です)の画素数は上がってきましたが、撮像素子一個あたりの面積も画像に影響します。撮像素子の面積は大きいほど画像は鮮明になります。同じ画素数でもスマホよりコンパクトデジカメ、更にはフルサイズデジカメの方が画質は良くなります。画素数が増えてくると画像のファイルサイズも増えてきます。記録するメディアも大容量になってきていて、通信速度も早くしなければ実用にはなりません。はじめの頃は1ファイルがKB単位でしたが今ではMB、しかもRAW+JPGでは60MBを超える物もあります。記録媒体もTBに達するものもありますが、現在一般的なものは16~64GB・スピードクラス10あたりとなっています。
(6) デジタルカメラで撮影した写真のファイル形式(拡張子)にも変遷がありました。現在主に使われているのは、JPEG,TIFF,RAW形式です。一般的にはJPEGが使われています。保存する際に圧縮し、データ容量が少なくなります。デジタルカメラの初期設定はこの形式になっています。TIFFは圧縮しないのでデータ容量は大きくなります。RAWは「生」という意味で、撮影したそのままの状態(データ)で、パソコンのソフトで「現像」という処理を行い、JPEGやTIFFに変換して画像をディスプレイに写し出したりプリントできるようにします。またデジタルカメラで撮影した写真ファイルにはExifという、撮影日時や機種、露出値、カメラによっては位置情報などの情報が記録されます。

第2部
1. ライカ(LEICA)
(1) 1869年 ドイツ・ヘッセン州ヴェッツラーにて、エルンスト・ライツⅠ世が、フリードリヒ・ベルトレの事業を引き継ぎ、エルンスト・ライツ・オプティッシェ・ヴェルケを設立し、顕微鏡メーカーとなりました。その後1905年にカメラ生産(35ミリカメラではない)、1907年に双眼鏡生産に参入しました。
(2) 1911年 技術者オスカー・バルナックが入社し、1912年に映画用カメラを試作。映画用フィルムの露出チェック用に小型スチルカメラを試作しました。(18×24ミリ)
(3) 1914年 35ミリ映画用フィルムの2駒分を使用する(36×24ミリ)「ウル・ライカ」を2台試作しました。
(4) 1920年に会社を継いだエルンスト・ライツⅡ世がウル・ライカに着目し、改良したプロトタイプとして「ヌル・ライカ」31台を1923年に製作しました。(2018年4月にオークションで240万ユーロ(約3億1,500万円)もの高値で落札されました) これを基により使いやすくして、1925年にライカⅠを生産・販売しました。カメラの名前は、「ライツのカメラ(Leitz Camera)」で「ライカ(LEICA)」と命名されました。
(5) 1930年にレンズ交換が可能となり、1932年には連動距離計を搭載したライカⅡとなりました。交換レンズも広角から望遠迄充実し、更に使いやすく改良されました。シャッター速度をB、1~1000分の一秒とし、より高性能になったライカⅢが1933年から生産されました。またこの機種はその堅牢さから軍用にも多用されました。
(6) この頃から1945年迄生産されたライカは、第二次大戦の敗戦で特許が失効し、世界各国(ソ連、イギリス、アメリカ、その他の国々、そして日本も)でコピー品や多少改良を加えたものが生産されました。日本でのコピー品はニッカやタナック、レオタックス、多少改良を加えてキャノン、外見はコンタックスで中身はライカのニコンなどがあり、ソ連ではフェド、ゾルキーなどがありました。(ソ連では特許などは無視して1930年代から作っていました。その他の国(日本を含む)でも第二次大戦中は軍用ライカを維持するため、補修部品を製造し、やがてはカメラ本体まで、戦争で入手困難となったため、自国で生産されるようになりました。)
(7) 終戦後はライカの工場は西側であったこともあり、早々と生産が始まっています。1954年にライカM3が発売されると、それまでライカを目標にバルナック・ライカの類似製品を作っていた日本は、その技術力の高さに、レンジファインダー機を諦らめ(主力機種とはせずに、ということです)、クイックリターン機構を持つ一眼レフに軸足を移し、大量生産と安価さで世界を席巻しました。
(8) 1970年代になると日本のカメラメーカーに価格競争力 (大量生産対手作業が介在する少量生産)、そして次第に電子化や品質の向上などで差がつき、ライカは不振となりました。1972年にミノルタカメラと提携しましたが、1974年にスイスのウィルド傘下になり、1988年にウィルドのライツはカメラ生産を停止しました。
(9) ウィルド傘下のライツがカメラ生産を止めたため、ドイツ・ソムルスで、ライツでカメラ生産に携わっていた人たちで「ライカカメラ」を1988年に立ち上げ生産を再開しました。(ライカカメラという商号は1990年から) (現在はヴェッツラーにあります。)
(10) 2000年に松下電器産業と技術協力契約を締結し、レンズを中心として提携関係が続いています。
(11) ライカの名で一眼レフも製造していました。1965年にライカフレックス、1976年にライカR3(ミノルタXEをベースにしています)、1996年にR8(独自設計)などがありました。他にもコンパクトカメラも生産しています。
(12) Mタイプのライカ
M3 1954年~66年 22万台製造、
M2 1958年~68年 8万8千台製造、
M4 1967年~75年 5万8千台製造、
M5 1971年~74年 3万1千台製造、
CL 1973年~76年 6万5千台製造、
M4-2 1978年~80年 1万6千台製造、
M6 1984年~97年、
M6-TTL 1999年~2002年、
M7 2004年~ 現行、
MP 2003年~ 現行、
MA 2014年~ 現行
(13) Mタイプのデジタルカメラ
M8 2006年~09年 (フルサイズでない)、
M8.2 2008年~09年 (これもフルサイズでない)、
M9 2009年~13年 (ここからフルサイズ)、
M(Typ240) 2012年~ 現行、
M Monochrom 2012年~ (2015年からニュータイプ)
M10 2017年~ 現行、
(Mタイプのカメラにはバリエーションが多い)
(14) 現在のライカのカメラは、フィルムタイプとしてM7、MA、MPがあり、デジタルカメラはM(Typ240)、MMonochrom(モノクローム専用)、M10(バリエーションあり)、SL(ミラーレス一眼カメラ)、Q(28ミリ広角専用) (ここまでフルサイズ)、CL(ミラーレス APSサイズ)、その他フォーサーズのカメラやコンパクトデジタルカメラ、インスタントカメラなどがあります。
(15) ライカカメラ社の規模は、1999年では資本金約11億円、売上約136億円です。

2. ツァイス・イコン
(1) カール・ツァイス財団傘下で1926年に創設されました。それまでドイツで乱立していたカメラメーカー、イカ、エルネマン、ゲルツ、コンテッサ・ネッテルの4社が合併してドイツ・ドレスデンにてツァイス・イコン社となりました。
(2) ツァイス・イコンでは様々なタイプのカメラを製造していましたが、ライカ判レンジファインダーカメラとして1932年に「コンタックスI(Contax I)という名称で発売を開始しました。ライカと同じレンジファインダーカメラであっても、ライカの特許を避けた距離計や鎧戸式のシャッター、独自のバヨネットマウント等、ツァイスの総力を結集したカメラで、機構はライカよりはるかに複雑になっていました。1936年にコンタックスII、同年光電池式電気露出計を搭載したコンタックスIIIを発売しています。第二次大戦終了後ドレスデンはソ連の支配下となったため、一部の技術者達は西ドイツのシュトゥットガルトでツァイス・イコンを立ち上げ、カメラの生産を始めました。ドレスデンにあった製造機械類はソ連に持ち去られ、ソ連でキエフとして生産されました。一方シュトゥットガルトのツァイスでは、戦前のコンタックスを改良し、コンタックスIIa、IIIaとして、1950年より生産を再開しました。
(3) レンジファインダーカメラ以外では、一眼レフとしてコンタフレックス、コンタレックスがあります。また東西分裂により、東側ではコンタックスの一眼レフが販売され、それが西側で販売する場合は、ペンタコン、後にはプラクチカという名称になりました。
(4) しかしツァイス・イコンも1971年にカメラ生産を中止し、1974年にヤシカと提携して、コンタックス(CONTAX)名の一眼レフを、レンズはカール・ツァイスが供給し(後にはカール・ツァイスの監理のもとにライセンス生産を行うようになります)、ボディーはヤシカで製造し、ヤシカから販売しました。最初にCONTAX RTSを1975年に発売し、1983年に京セラに吸収合併されるも、2005年迄コンタックスブランドのカメラを製造しました。コンタックス名のカメラの中に、プレミアムコンパクトとしてTシリーズのカメラもありました。
(5) その後カール・ツァイスはコシナと2004年に提携し、レンジファインダーカメラ「ツァイス・イコン」を2005年に発売しました。レンズに関しては、コシナでカール・ツァイスブランドのレンズを製造しています。ツァイス社の2017年9月期の売上は約6685億円です。

3. キャノン
(1) 1932年 吉田五郎がライカⅡを購入し、模倣品を制作しました。翌年「精機光学研究所」を六本木に設立しカメラの製造を始めました。1935年に「キャノン Canon」を商標登録し、近江屋写真用品店と独占販売契約を結んで、1936年ハンザキャノンとして発売しました。
(2) 現在のキャノンは、資本金1747億円、売上3兆4千億円の大企業で、イメージングシステムはそのうち32%を占めています。(2016年12月期)

4. ニコン
(1) 1917年 光学兵器の国産化を目的として岩崎小彌太の出資により「日本光学工業㈱」として設立されました。1930年以降は陸軍造兵廠東京工廠、東京光学機械(現・トプコン)、高千穂光学工業(現・オリンパス)、東京芝浦電気(現・東芝)、富岡光学器械製作所(後の京セラオプテック)、榎本光学精機(現・富士フィルム)、などとともに日本軍の光学兵器を開発製造しました。レンズ名の「ニッコール」という商標は1931年に決定し、カメラ名の「ニコン」は1946年に決定されています。1945年の終戦とともに民生品の生産に転換し、カメラの製造を始めました。
(2) 現在のニコンの資本金は654億円、売上7488億円です。(2017年3月期)

2019年3月5日 | カテゴリー : 卓話 | タグ : | 投稿者 : gifunakarc